こんにちは。
高千穂町議会議員の板倉哲男です。
いつも町議会の内容を投稿していますが、今日は、まったく議会と関係のない話題です。
先日(2026年5月23日)、宮崎県埋蔵文化センター主催の「リアルタイムまち歩き ~西南戦争と高千穂~」に参加したのですが、その概要を、自分の備忘録もかねて、まとめたいと思います。

149年前の5月25日は高千穂が戦場だった
西南戦争について、詳しく述べませんが、1877年(明治10年)1月から9月にかけて起きた西郷隆盛を中心とした士族の反乱です。
戦場は熊本、宮崎、鹿児島と、広範囲に及びます。
高千穂町も戦場となったのですが、高千穂町で大きな戦いがあったのが、今(2026年)から149年前の、5月25日だったそうです。
なお、この頃にはすでに新暦(太陽暦)が採用されていたため、当時の5月25日は現在の暦でも同じ5月25日にあたります。
主戦場は小坂峠
高千穂で最も激しい戦いとなったのが、小坂峠だそうです。
ちなみに、小坂峠とは、高千穂町三田井と下野の間の峠です。

そもそも、なぜ、高千穂が戦場になったのかというと、高千穂は肥後の馬見原や豊後の竹田に通じる交通の要衝のため、政府軍にとっても薩軍にとっても、地理的に重要な場所だったそうです。
また、西南戦争当時は、宮崎県はすっぽりと鹿児島県に統合されていたらしいので、薩軍からすると、自分たちの国土という意識だったのでしょう。
具体的な戦いについて、いただいた資料をまとめます。
午前3時、政府軍が小坂峠の麓に到着。霧が深いためその場で待機。
午前8時すぎ、霧が晴れ始める。
午前9時、政府軍が攻撃を開始。
時間帯不明だが、おそらく午後に、政府軍は田原村出身の佐藤清三郎の案内で、小坂峠よりも浅ケ部側の観音岳から回り込み、背後から攻撃。
午後5時、薩軍が小坂峠から敗走。
高千穂警察署東側は本営だった
小坂峠の戦い以降、徐々に、三田井は政府軍が治める土地となっていきました。
その時の政府軍第一旅団の本営が、現在の高千穂警察署の東側に置かれていたそうです。
当時、そこに何があったのかというと、県の出先機関である出張所があったそうです。
この出張所がつくられたのが、1872年(明治5年)のことだそうです。
西南戦争は、この5年後ですので、第一旅団の方は、新築に近い出張所を見たことでしょう。
この出張所の建物は、現在は跡形もありませんが、出張所前にあったという凝灰岩でできた石段と石垣は、現在も残っています。


埋蔵文化センターの方が、余談として、「『延岡の殿様の命令で、1日2銭の安い賃金で重労働を強いられた』と不満の声を政府軍は聞いたそうです。ただし、出張所を建設した1872年(明治5年)の時には、すでに延岡藩はなく、美々津県だったのですが、当時の人の意識として、まだまだ、延岡藩の土地という意識だったのだろう」と教えてくれました。
町の史跡の官軍墓地
宮崎県内には3カ所の官軍墓地があるそうですが、そのうちの1つが高千穂町にあります。
高千穂町の官軍墓地には、45名が埋葬されているそうです。
ただし、ここに埋葬されているのは、小坂峠の戦いの時の戦死者ではなく、7月以降の
戦死者だそうです。
それ以前は、戦死者が出れば、熊本まで戻ってから埋葬していたそうですが、7月以降になると、気温が高くなり、遺体の保存が難しいとの判断で、高千穂町での埋葬ということになったそうです。
有名な、延岡を舞台とした可愛岳(えのたけ)越えは8月のことですので、その時の戦死者などが、埋葬されているようです。

感想
近代史は記録も多く、また、現在につながる部分も多いので、個人的に特に興味あります。
宮崎県埋蔵文化センターの方が、イベントの最後に、「高千穂町であった歴史を大切に、保存し後世に伝えていってくださいね」とおっしゃっていました。
実際、警察署東側の出張所跡には、現在も石段や石垣が残っています。
ただ、現地には説明看板などはなく、石段にも雑草が目立っていました。
こうした歴史遺産を、どのように保存し、伝えていくのか。
町としてできることもあるのではないかと感じました。
やはり最後は、議員としての視点で考えてしまいます。
今回はこれで失礼します。
